ジャーナリストとして歩んできた道

朝鮮戦争「休戦」翌年の1954年、大阪市生野区に生まれる。小学校4年のとき、鬱陶しい父親が家を出て行き息苦しい生活が一変。「母ひとり子ひとり」の解放感に満ちた自由で楽しい日々が始まる。甘やかされお金に不自由しない勝手気ままな生活態度は徐々にエスカレートし、ぶらぶらと過ごす放蕩息子になる。親戚一同からそれを咎められ、大学(関大の哲学科)入学後まもなく親に勘当される。その日から突然「自活」 を迫られ、慌てて仕事とねぐらを探す。

そんなわけで、哲学生時代の4年間は日本経済新聞社の編集局流通経済部でアルバイトして学費や生活費を稼いだ。本来なら食べるだけで精一杯。映画・演劇の類を愉しむことなどとてもできないのだが、学芸部の部長が方々から届く「ご招待」のチケットをたんまりくれて、高額の芝居やコンサートを毎週のようにタダで観にいった。
加えて、大学とは別に(ちゃんと授業料を払って)大阪シナリオ学校に籍を置き、浦山桐郎監督(『キューポラのある街』『非行少女』『夢千代日記』など)に師事。 神戸、尼崎、相生などを舞台にした『てだのふあ太陽の子』(浦山監督/1980年)の製作では、撮影のため通学できない主役の女児(中学1年生)の家庭教師などを監督に頼まれる。
 
その年(1980)の夏、社会主義陣営の盟主・ソ連の忠実な手下のように見えたポーランドで、自由と民主を求めて民衆が決起。レーニン造船所でのストライキが世界的なニュースとなった。哲学科で「自由論」を専攻し「現存する社会主義における自由の諸問題」と題した卒業論文を書き進めていた私にとって、ポーランドでのそうした動きはまさに「生きた教材、研究資料」だった。 
そしてその「決起」を予見したかのような映画『大理石の男』(アンジェイ・ワイダ監督・1977年)が、3年遅れで日本でも公開されることになり、大阪でも1980年10月に堂島のヘラルドで試写会が行われた。そこに足を運んだ私は、アンジェイ・ワイダという人の力量をこの一本の長編で十分に感じ取った。と同時に、スターリニズム時代のみならず現代の共産党の過ちをも告発しているこの作品の製作・公開を、支配者たる党・権力が容認しているポーランド社会というものが奇妙でならなかった。

『大理石の男』の試写会の翌日、私は『てだのふあ太陽の子』を配給していたK映画社に足運び、その在庫フィルムの中からワイダの『地下水道』、『灰とダイヤモンド』を見つけ出した。そして、あてがわれた部屋に映写機とフィルムを運び込むと、自分で映写機を回して一人っきりでこの2本の映画を見た。 
真っ暗な部屋の中、私は、時間と空間を超え、私が求めている友人に巡り会ったような気分になった。そして、心はワイダに「連帯」に、そしてポーランドにいっそうひきつけられていった。 

1981年1月、賃上げと民主化を求める労働者の決起でうねりをあげるグダニスクのレーニン造船所で、ワイダ監督が『大理石の男』の続編となる『鉄の男』を撮影していることを「NHK特集」で知る。どうしてもその現場に行きたい私は、4年ぶりに、母が独りで暮らす実家の敷居を跨いだ。そして「ポーランドの民主化運動をこの目で見たい、ワイダ監督に会いたい」と話すと、母はその場でポンと50万のお金を渡してくれた。

 同年3月、パリ経由でポーランドへ渡る。何のコネも紹介状もなく、誰一人知り合いもいない。もちろんポーランド語は話せない。それでも、ワルシャワ入りしたその日(3月18日)のうちに巨匠アンジェイ・ワイダや主演女優のクリスティナ・ヤンダらに会え、翌日から『鉄の男』の撮影に同行する。 
あわせて、独立自治労組「連帯」の活動家のアパートに泊まり込むなど、民主化運動にかかわる人々との交流を深めたのち4月半ばに日本へ戻る。

帰国後は『キネマ旬報』ほか数誌に現地ルポを寄稿したりラジオ出演をしたり。このラジオの番組というのはMBS「ヤングタウン」で、売れ始めた頃の笑福亭鶴瓶さんがパーソナリティ(今もなお彼はこの「ヤンタン」で喋っている)。彼とはそれ以来ずっと仲良しで、時々、政治や社会のことを互いに本音でやりとりしている。

大学卒業後、一度もどこにも就職せずに生きてきた私の42年のジャーナリスト人生はそうして始まった。


か月後の1981年7月には学生ではなくジャーナリストとしてワルシャワを再訪。ビザの期限いっぱいの10月まで滞在して「連帯」の活動家たちを中心に民主化運動の実態を徹底的に取材した。ワイダとも再会して、完成した『鉄の男』のプレミア試写に招待される。 


(1981年3月『鉄の男』の撮影現場でのワイダ監督)


(1981年7月、ワイダ監督と再会)


(『鉄の男』日本公開時のポスター 1981)

(ワルシャワ・文化科学宮殿前に設けられた『鉄の男』の大看板 1981)
1981年12月、ポーランドはソ連の圧力を受けて戒厳令(戦時体制)を布告。民主化をめざした運動は潰され、友人となった「連帯」の活動家たちはみな逮捕・投獄。西側の外国人は原則誰もポーランドに入国できない状況となる。
それでも、私はパリで国際学生証を偽造して翌年春にワルシャワに潜入。”地下”に潜った「連帯」活動家らと接触して取材・発信を重ねるも、3か月後に警察に逮捕され国外退去処分をくらってフランスへ出国。
その頃、パリで『ダントン裁判』撮影中のアンジェイ・ワイダ監督と会った後、改めてポーランドへの入国ビザを取得してワルシャワへ戻る。ところが、その数日後にまた逮捕されて国外へ追い出される。
以降、ポーランドのみならずソ連、東独など社会主義国家への入国ビザを取れなくなる。日本にいて、6年に渡り、日々、ポーランドでの劇的な体験を書き進める。


そして1989年に『CZEŚĆ!(チェシチ)──うねるポーランドへ』で[ノンフィクション朝日ジャーナル大賞]に応募。応募規定は「300枚までで縦書きに限る」だったのに、それを無視して「横書きで2500枚」の原稿を編集部に送り付けた。立花隆さん、宮迫千鶴さんら6人の審査員全員から高い評価を受け、めでたく「大賞」を受賞。規定違反の原稿を突き返さずに審査対象としてくれた千本健一郎氏をはじめとするジャーナルのみなさんに感謝です。

その直後に、ベルリンの壁が崩壊するなどソ連・東欧の〈連鎖革命〉が加速化し、一躍「売れっ子」になった私は、1989年の秋以降、ワルシャワ、ベルリン、プラハ、モスクワ、ビリニュス……と、現地取材で各都市を転戦。民主化の進行とソ連を盟主とした社会主義共同体の崩壊を見届けた。

[この続きは7月に]

 


※以下の写真はいずれも筆者が現地で撮影


(ワレサ率いる「連帯」主導政権誕生 1989)


(チェコのビロード革命、プラハでは連日の大規模デモ 1989)


(エリツィンによる民主化が進むソ連。モスクワで現地取材を開始 1990)


(西側の観光客相手にゴルバチョフ時計を売るモスクワの若者たち 1990)


(リトアニアは市民が武装してソ連からの離脱・独立の是非を問う国民投票を実施。銃を手に最高会議ビルに立て籠もるビリニュス市民 1991)


(ビリニュスの最高会議ビルに通じる道に設けられた対戦車用のバリケード 1991)


(ゴルバチョフがソ連邦解体の是非を問う国民投票を実施 1991)


(エリツィンに抗う保守派が武装蜂起してモスクワで市街戦勃発。ウクライナホテルのわきで 1992)


(鎮圧部隊の兵士たち。モスクワの大統領府近くで 1992)


(鎮圧部隊の陣地、兵舎となったモスクワのウクライナホテルで 1992)

[長いプロフィール]の続きは、後日アップします。

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